「サラリーマン45年」(下) -私の歩いた道⑤- (前島  淳 君)

2012年2月13日(第2589回例会)

担当会員:山口 義人 君

今回は山口さんから当番をいただき33歳から67歳までの34年間、一所懸命に働いた浅井産業での事績と同社の現況を語りたい。
私が11年間勤務した住友銀行を依願退行し、昭和36年5月に入社した浅井商店は、岳父の浅井鉞次郎が勤めていたK鉄店が廃業で暖簾を貰い実兄の浅井錠太郎と大阪市西区新町に個人創業、大正15年に資本金1万円の合名会社として仕入れを平炉単圧メーカーだった脇浜の神戸製鋼所に絞り、郷里ナゴヤの豊和工業(当時の呼称は豊田式織機)や、大正13年刈谷に独立創業の豊田自動織機製作所(現・豊田自動織機)などを主な販売先として孜々営業していた。一方、トヨタは英国プラット社からの莫大な特許料を元手に佐吉翁の子息の喜一郎氏(東大・工卒)が悲願の自動車生産(最初は軍用トラック)に乗り出し、擧母町(現・豊 田 市)に工場建設の際は岳父が鎌・鍬を持って草刈り・整地を手伝った秘話は、創業時から大幹部の豊田英二・斉藤尚一(故人)の両氏から何回も拝聴した。そして敗戦直後の自工の苦境にも恩義を忘れず協力した義理堅さが評価され、現在の当社発展の源泉となっているが、一方、時代に適応した納入の競争実力が絶対条件である。
私の入社時は岳父の建てた大阪・大正区の三軒家倉庫から宵積みした特殊鋼が鈴鹿峠越えで陸送され、朝一番開門直後の納入で重宝がられていたが、重量物の長距離運送は甚だ危険であり、早急な東海地区での自社倉庫の建設が焦眉の急務となっていた。
私は運勢に恵まれている。昭和40年に役員になって、名古屋支店長を兼務した頃、愛知県が知多半島の東側の碧南・高浜地区を埋立て工場団地を造る企画のあることが入魂な鴻池組名古屋支店からもたらされ、早速私の県庁通いが始まった。私は最北端の高浜町(現・高浜市)地先の5千坪を所望し了承された。お手許の資料で建設の経緯と入出荷・在庫の現況、上空から見た全景などをご覧ください。昭和46年5月の第一期竣工披露パーティーには既に引退していた岳父も元気に出席してくれ招待のお歴々と歓談の風姿は、41年経った今も脳裡に鮮明である。
その翌年3月、住友銀行・名古屋駅前支店ビルの新築披露に全重役が来名の折、私も招待されて元上司の浅井頭取と談笑している写真や、翌々・昭和48年8月の住友銀行が伊部頭取の就任を好機にトヨタ自工の首脳がたを名古屋キャッスルホテルに招待した時、古巣の銀行から特に依頼されてホスト役に駆り出された際のスナップをアルバムからはがして持参したので興味のある方はご覧いただければありがたい。いずれも私の40歳代の半ば、人生働き盛りの懐かしい思い出である。
話を岳父晩年の「社会奉仕」に移します。昭和40年代初め頃、中馬市長から大阪市の緑化運動開始のシンボル・モニュメントの適当な寄贈者を持ち掛けられた堀田庄三住友銀行頭取(当時)は彼是勘案の上、同行をメーンバンクとして事業に成功し、加うるに同窓(名古屋市・大須門前小学校)の後輩として人物を知悉している岳父を推薦された。
岳父は製作者の本郷新が如何なる彫刻家であるか全く知らず、二つ返事で承諾したらしい(後で私が色々説明した)。大阪の「へそ」中之島公園の中心、正確に言えば大阪市庁舎と中之島図書館の間の南側、土佐堀川に面した最高の憩いの場所に、屹立する裸婦二人が背中合せに両手を掲げるポーズのブロンズ像であるが昭和48年4月の除幕式(大島市長)には病床で、出席が適わなかった。
この外、お世話になった池田市民病院へは医療器具、自宅の在る川西市へ消防車、伊丹自衛隊屯地へ庭園と、併せて1億円(現在の金額で5億円)の個人寄贈をして花屋敷の自邸で昭和54年8月に78歳で永眠した。
話を私のことに戻すと、昭和48年11月専務に昇進して大阪に戻り経理・総務部を担当し社長の義兄を補佐していた。この頃、RCへの入会を強く薦める方々があり、昭和51年7月、義兄は本社が当時、新阪急ビルに在ったので北RCへ、私は大正区のサービスセンター社長兼任だったので当RCへ入会させていただくことになった。
その後も会社の業績は順調に推移していたが、好事魔多し、昭和61年暮れに肝がんが判った義兄は3代目社長を生え抜きのK副社長に依託して会長となり、私は在任2年で取締役相談役に退いた。そして義兄は、平成元年8月に脳梗塞で急逝した年子の妹(私の36年連れ添った妻)の後を追うように、同年12月に59歳で他界した。
一族の不幸はまだ続く。某大手商社で数年修業してから入社し、5代目社長を予定していた副社長の甥が、私の退社後7年の平成14年に急逝した。享年43歳。
斯く創業家直系の人々が総て亡くなったが会社の業績は頗る好調である。お手許に配付のグループ会社を含む連結消去後の茲許2年間の業績をご覧ください。近く発表の平成23年度決算も、経常利益は更に向上し10億円を超えそうと聴き、密かに悦んでいる。
「事業は人なり」岳父と義兄・私と苦楽を共にした人々も殆んどOBになったが、私が採用試験の面接で強引に入社を口説いた現・6代目社長が経営陣の中核となり、難局を乗り越えている。役員10名、職員105名。資本金は平成4年から7億円のままだが、内部留保の頗る厚い優良非上場・中堅企業となった。私は死ぬまで、会社の業績推移と発展を見守り続けたいと思っている。

 

〔追記〕
1)この卓話の文章化が終わった時、会社から「OB会」の案内があった。今年は大阪・名古屋地区は大阪の太閤園、東京地区が白金・八芳園。
因に昨年は名古屋に全員集まり、私の提案で会合前に希望者は、トヨタグループ発祥の地の旧豊田紡織本社工場跡の「トヨタテクノミュージアム」を見学した。
2)会社の最重要地はナゴヤ地区に変りがないが、御多分にもれず、当社も品川駅に近い東京本社に一元化した。
私が入社直後、テナントになった梅田・八番街の新阪急ビル(8F)から、大阪支社は昨年5月、茶屋町のアプローズタワー(22F)に移転している。