「私の町“三田”の歴史と文化 ちょっとした話」 (山原 一晃 君)

2012年2月6日(第2588回例会)

 

⑴三田市は、兵庫県南東部、人口12万人、旧町内と山林田園とニュータウンが一体となった中堅都市であります。昭和62年から10年間人口増加率が全国連続第一位の記録があります。(以下人物は敬称略)
⑵①白洲次郎・正子のお墓が三田心月院にあり。次郎は戦後占領下の日本で吉田茂首相のブレーンとして、GHQと渡り合い、激動の時代を風の様に駆け抜けた、プリンシプルを貫いた男と言われ、正子は能や骨董収集等日本伝統美の発見者と言われている。町田市の武相荘に住んでいたのでお墓は東京かと思っていたが、実は祖父の白洲退蔵は幕末の三田藩主13代九鬼隆義時代の藩政の実力者であり、藩内にお墓があるのは当然である。
②次郎・正子の墓は遺言書通り、正子のデザインで氏名年齢日付等記入なし。不動明王と十一面観音の梵字が彫られているのみで、年齢差分8㎝正子の墓は低い。全国からファンが訪れ、香華がいつも絶えない。
③次郎は晩年はポルシェを乗り廻し、運転のみならず性能についても堪能であった。昭和61年次郎の一周忌にトヨタの豊田章一郎社長が心月院へ「ニューソアラ」を横付けして墓参した。愛車ポルシェをソアラ開発の参考に提供したことへの感謝の完成報告であった。町の人は数台の新車の列がどこへ行くのか驚いたらしい。
④心月院は九鬼家の菩提寺である。天正13年秀吉が有馬温泉に建てた寝殿を移設したのが起源である。歴代九鬼藩主の立派な墓碑は紀州公のものと双璧である。
⑶①九鬼家が志摩鳥羽から三田へ寛永10年(1633年)移封された。鳥羽で九鬼嘉隆が戦国時代、信長と秀吉に仕え、小規模海賊集団を一躍我国を代表する九鬼水軍へと成長させた。ところが江戸時代お家騒動が勃発し、責任を問われ綾部と三田(3万6千石)に分封されてしまう。このお家騒動は九鬼水軍の力を恐れていた幕府にとって願ってもない事で、これを機に水軍の持てない内陸部へと押し込めることに成功したのである。
②三田九鬼家は初代久隆が陣屋を城代わりに築き、城下町を形成。今も屋敷町、札場の辻、桜の馬場等地名として残り、城下の面影がある。節分では殿様に遠慮して「福は内、鬼は内」と豆撒きを行う。九鬼家は初代から13代隆義まで続き、廃藩置県後、三田県知事や神戸で白洲退蔵・小寺泰次郎等と商会を設立し大成功を収める。福澤諭吉と親交あり。福澤が東京三田に慶応義塾を設立したのも読み方が違う三田という地名に親近感を持っていたからかもしれない、との話もあり。旧九鬼住宅は県指定重要文化財で残っている。
④その他三田とのゆかりある事で、川本幸民、横山エンタツ、三田学園等詳細は省略させていただきます。