「東京から大阪へ来年で40年(昭和48年1月のこと)」 (米川 仁章 君)

2012年3月19日(第2594回例会)

 

最初に、3月5日の大塚融氏「関西の経営者に生きる」卓話で、松下幸之助創業者と早川徳次創業者との比較で、松下さんは夫婦円満を基準とする内向き経営との評価、また松下政経塾にも厳しい評価をされたが、一言付け加えたい。松下幸之助創業者の意見に限らず、夫婦円満、家庭円満、親子円満は社会人として基本的なこと、松下政経塾について地盤、看板、縁故という閨閥が政治家への道であれば、金も閨閥もなく辻説法で自分の考えを訴え、地方議員から国会議員、大臣まで上り詰めていく松下政経塾出身の議員に、まだ経験の乏しい中での発言が誤解を招くこともあるが、それなりの評価をと、考える。
今回の卓話は、当時早稲田大学建築学科武基雄教授の研究室で大学院を含め6年の研究室在籍生活、その頃、松下で建築・都市計画を学んだ人材を求めていることで推薦をされ、東京を離れることに悩み、武先生の仲間、弟分の吉阪隆正先生、同級生の秀島乾先生、弟子の菊竹清訓先生、先輩の村野藤吾先生、良きライバルの東京大学の丹下健三先生、丹下先生の弟子の浅田孝先生、良き先生の前川國男先生等、先生方との対話を通じて知ったことのほんの一部を卓話とする。あの時代は、武先生が何故あのように優しかったのかと色々と思い浮かぶことがある。蔭口のように、「武先生は出来の悪い学生を何故あのように可愛がるのか」と言われる度、先生から出る言葉は「出来の良い学生はほっておいても出来が良いと、出来の悪い学生に手を差し伸べるのが教育」であると。秀島乾先生が、あの戦争中に大学院の学生として過ごしたことが要因ではと、遠慮気味に酒の席で言われた。秀島先生は卒業と同時に満鉄に勤務、満州国の都市計画に携われた。研究室にいる間、武先生の用事で丹下研究室に何度か伺ったことがあった。その時の印象がいまだに残っている。丹下先生はどんな内容の質問にも出来る限り正面切って笑顔で答えて下さる先生のように思えた。後に丹下研究室の方々に伺うと教師と学生の垣根を越えた討論だったと。武研究室も同じであった。お二人は昭和12年に大学を卒業され、武先生は石本喜久治建築事務所、丹下先生は、帝冠様式と大東亜共栄圏建設の体制下で、近代建築の提唱者、前川國男建築事務所に勤務。時代が太平洋戦争に向かっていく昭和16年春、お二人はそれぞれ母校の大学院に戻り研究活動に従事、戦後は数々の名建築を創られた。その当時の浅田孝先生(後の環境開発センタ創設者)は学徒動員で戦地に赴き、戦火の中で母校に戻り建築をと夢を描く大勢の若き学生が帰らぬ人になり、それだけに大学院に残ったことの後ろめたさとその償いが戦後の日本の建築を創ったのではと、酒の席で涙を堪えて語ったと、遠い記憶にある。