「サラリーマン45年」(上) -私の歩いた道④- (前島  淳 君)

2011年4月11日(第2552回例会)

私は昭和25年から平成7年まで銀行員11年、商社マン34年、併せて45年間のサラリーマン生活を送った。
前回の卓話でもふれたが、私の就職受験の昭和24年秋は超デフレ政策の真っ只中で厳しい就職難の年であったが私は財閥解体のため「大阪銀行」と改称中の住友銀行に翌年4月1日入行することが適った。文書辞令上での初任給2,550円、実際の支給額は3倍の7,650円だった。
初任給1万円の大台に乗っていた花形企業は確か東洋レーヨン・倉敷レーヨンで、東洋紡・日紡などの十大紡が続いていたと記憶する。当時銀行はBクラスの給料であり、私の大阪高校の級友40名の殆どは十大紡でなければ所謂五綿八社という「糸へん」商社に殺到し、関西系の大銀行に入行したのは三和と、野村改称の大和に各2名、それに私を加えての5名だった。
入行2ヵ月後、大学・高専卒50名の仲間の新入生講習が終って各店舗の営業部署に配属された直後の6月25日突如「朝鮮戦争」が勃発し、深刻な不況で四苦八苦していた日本経済に起死回生の所謂「特需ブーム」が訪れた。
動乱の治まった昭和28年秋、貸付課の事務員に替っていた私は、すすめてくれる人があって昭和初期から住友銀行と親密な一行取引をしている資本金350万円の「合名会社・浅井商店」の社長、浅井鉞次郎の長女と見合婚約し、翌昭和29年1月末に結婚、阪急電車・豊中駅最寄りの千歳通り(今の末広町2丁目)の家屋で新婚生活を始めた。
一方、本店人事部は若い内、小店舗の経験が必要と思ったのであろう、今は廃店になった梅田新道支店に転勤させられ、昭和30年2月から1年8カ月、貸付や総務を体験していた私は、波多野一雄人事部長に呼び出された。
「君は学生時代、『京都帝国大学新聞』改称『学園新聞』で編集していたのだろう。『行内報』の二代目編集者などで頑張ってくれ」と、本店総務部文書係に昭和31年10月転勤を命ぜられた。
文書係の男性6人は束ねる係長と株主総会や係争中の法律問題を顧問弁護士に相談したり時々法規の研修会を実施する者2名、行内諸規定の改廃担当2名と私は毎月発行する「行内報」の編集と毎月開催される「主管者打合会」の議事録取りまとめが与えられた任務であった。
「支店長打合会」と言わずに「主管者打合会」と言うのは支店長同格の検査役や調査役も相当数含まれていたからである。当時の住友銀行は今と違って大阪が本店の銀行だったから、毎月上旬、頭取はじめ常務以上の担当役員が勢揃いして近畿地区主管者打合会を開催、隣りの録音室に詰めた各部のスタッフが、急遽追加や修正した資料を携えて、秘書で割振った役員部長が京浜・東海・中国・九州各地区の支店長打合会に赴くことになっていた。
一方、私の主任務の「行内報」編集だが、終戦後の何時から始ったのか、全国的に社内報ブームが湧き起って、戦前・戦中の「知らしむべからず、依らしむべし」の経営方針では社員が付いて来ない、「大小、何でも知らしむべし、而して依らしむべし」というのが、会社経営一般の風潮となり、小さい会社でも社内報を作る時代となっていた。
住友銀行は当時の行員数8千人、諸々どんなことでも行内報に毎月まとめて周知徹底を図るようにしていた。
本店総務部長が編集長、同次長が編集次長、部長代理の文書係長が担当係長で、私が2代目の編集者であったが本店各部から毎年優秀な若手部員が編集委員会に送り込まれて毎月下旬、合同の編集委員会を開催し、順番に各部担当の特集企画をこなす仕組みになっていた。と同時に全国に展開する支店に各1名の連絡委員(レポーター)が任命されて支援してくれる仕組みにもなっていた。
手許に配付のコピーでご覧のように昭和34年1月では私は編集者、翌35年1月で私は管理職の部長代理・文書係長に昇進して前列に坐り、部長次長も交代している。この各部委員の中から後年副頭取3名をはじめ関連会社役員が輩出しているが、具体的な説明は省略する。
もう一つB5版見開き4枚の浅井孝二常務の近畿地区主管者打合会での欧米視察旅行講演要旨は外国部・人事部委員と私が協同で文章化したもの。浅井さんは、わがクラブに創立直後の昭和33年入会され、亡くなる平成4年まで実に34年の長きに亘り会員で晩年は好々爺の風情で優しかったが、私の独身駆出し時代の部長当時、部屋に呼び込まれるなど、大変厳しく、怖い上司だった。
話戻って文書係長1年1ヵ月の間に今も忘れ難い幸運な旅の思い出がある。それは住友直系会社の社長会の、「白水会」の事前の総務部長会の下の15社(当時)の文書課長会・「住友商標委員会」仲間の慰労懇親旅行で新居浜を訪れ、まだ閉山していない別子銅山と四阪島の製錬所も見学する機会に恵まれた。もう一つは昭和34年4月に、皇居前の大手町に竣工した新住友ビルで初の全国主管者会議が開催され、その夜は目白の椿山荘での盛大な懇親パーティー、何れも裏方を無事に務め上げた。
斯くて本店総務部勤務4年1ヵ月、内管理職1年1ヵ月で、私は銀行員本道の融資業務に戻ることになった。本店営業部、5分割の私の担当は新聞・テレビのマスコミ各社と道修町の製薬メーカー、日建設計と大阪本社のゼネコンで5人の主査に夫々補佐がつき、一方外回わりの取引先課も5人が分担していて、部次長を囲んだ10人の融資資金配分会議の激論を懐かしく思い出す。
後2・3年ほど経つと大店の次長に転出するのが過去のコースになっていたが、当時は単身赴任が許されないのと次回の卓話で話す事情もあって、浅井の岳父が入魂な人事担当の浅井専務に直訴して、昭和36年4月末に私の自己都合による依願退行が決まった次第である。

 

以上が11年1カ月に及ぶ私の銀行員の歩みで、次回の卓話で、34年間の浅井産業勤務のことどもを語りたい。
ご静聴に深謝いたします。