「天に一番近い大地チベットからのお話」“故郷と日本に恩返し”(チベット声楽家 バイヤーヤンジン 氏)

2010年2月1日 (第2500回例会)
担当会員  大塚 道夫 君

 私はチベットの田舎町で育ちました。遊牧民の両親は自給自足の生活でした。母は10人の子どもを産みましたが、そのうちの3人は医療が不十分で死亡。一方で、孤児(今の姉)を一人引き取ったので、8人兄弟で育ちました。教育を受けていない両親は字が読めません。病院でもらう処方箋も読めないし、自分の名前を書くことすらできません。町の公衆トイレでは「男性」と「女性」の文字が読めず、間違って入ってしまい、大恥をかいたこともあるそうです。つらい経験をたくさんしましたが、その中でも決定的だったのは先祖代々の土地を奪われたことです。ある日、契約書に拇印を押してほしいと役人がやってきました。とても優しそうな人でしたし、契約書の内容も土地とは関係がなく、別のことを口頭で読んで聞かせてくれたのだそうです。それで、その人を信用して両親とも拇印を押したのですが、ある日から柵が張られ、自給自足の遊牧民にとって大切な土地を3分の2も取られてしまいました。

母親は血を吐くほど嘆き悲しみ、「私達は牛と一緒だ。右に行け!と言われれば右に、左に行け!と言われれば左に行くしかない。こんな悔しい思いは子供たちにさせてなるものか!」と小学校のある町に定住することを決めたのでした。けれども、収入のあてがありません。すでに10代半ばだった一番上の兄がそれを悟り、「僕が家畜の面倒を見るから、お父さんとお母さんは弟、妹の面倒をみてやってください」と牛300頭の世話を一手に引継ぎ、遊牧生活を続けてくれたのでした。

私は両親と兄の気持ちに応えようと必死で勉強しました。小学校、中学校のときは朝五時に起きて牛のミルクを絞り、ビンに入れて走ってお金持ちの家に届けるなど家事もしながら、時間をやりくりして、本にかじりつきました。家から300キロ離れた高校に進学したとき、宿舎の消灯時間は午後9時。そのため、夜間でも電灯が使えた校舎のトイレに本を持ち込んで、午前2時、3時まで勉強しました。冬はいてつく寒さで手足がしびれ、夏は臭くて倒れそうになりました。くじけそうになったとき、両親、兄を思い出し、頑張りました。

おかげさまで、チベット出身で初めて国立四川音楽大学に合格、卒業後は専任講師として大学に残り、先生になりたいという自分の夢をかなえることができました。

そのとき、運命的な出会いをしました。隣の四川大学に留学していた日本人(今の夫)と知り合い、結婚したのです。1994年に来日しました。

初めての日本は本当に驚きの連続でした。高い建物、モノレール、コンピューターなどにびっくりしました。初めてファックスを見たときは「どうして大阪で流した文章がイギリスに届くのだろう?」と、不思議でたまりませんでした。そして、流行遅れの服、古い家具、まだ使える冷蔵庫など、人様のごみを眺めながら、「もったいないな。チベットに送れば、あと十年は使えるのに」と何度も思いました。でも、そのうち物を送っても故郷はいつまでたってもそのままじゃないか、故郷が自立し、発展していくには、人を育てていく必要があるのではないかと思うようになりました。

日本には義務教育があり、全ての人が教育を受けることができます。江戸時代の寺子屋、明治維新の教育改革と日本は昔から教育に大変力を入れてきました。そして、今では世界に誇れる人材や企業を育てるに至りました。これはすべて教育のおかげです。

両親はつらい思いをして、私を学校に行かせてくれました。今度は私がチベットの子供たちを学校に行かせよう。故郷に貢献できる人材を育てようと決めました。

でも、最初に学校を造るときは本当に大変でした。当時、私はハンバーガー店でアルバイトをしていて、収入は限られていました。それでも、あきらめずに、十年、二十年かかってもいいからチベットに学校を作ろうと、こつこつと貯金しました。夢は、あきらめてしまえば、それまで。でも、一歩ずつ進んでいけば、いつかはたどり着くだろうと思って頑張りました。

やがて、たくさんの人々からご支援いただけるようになり、おかげさまで、これまでに小学校9校と中学校1校が完成、現在三千人の子供たちが教室で目を輝かせて学んでくれています。

日本に来てからはコンサートだけではなく、講演活動もしています。数年前、関西のある小学校で講演したとき「幸せですか」と子供たちにたずねました。「幸せ」という返事が返ってくるものだと思っていたのに、答えは「べつにぃ」「わからん」でした。衝撃でした。

「わからんわけ、ないでしょう!こんな立派な学校で勉強できて。あなたのために、お父さんは満員電車に揺られて一生懸命働き、お母さんは自分の夢も捨ててご飯をつくって、学校の先生はどうやったら理解できるかと頭を悩ましながら教えてくれる。わからんわけ、ないでしょう」私は本気でしかりました。でも、怒られた子供たちはきょとんとしたまま。

「私から見れば、ご先祖様が苦労して、今のような素晴らしい社会を作り上げてくれたのに、このような恵まれた環境にいかせてもらっていることは実は大変幸せなこと。けれども、日本の子供たちは幸せだと感じない。ありがたいと感じない。これほど不幸なことはない」。

これを機に、私は日本とチベットの子供たちの交流をはじめました。お互いの環境の違いを通して、故郷の良さと足りないところを見つめなおして、自分がやるべきこと、夢や希望をもってくれたらと思っています。

私はまもなく日本の生活が一番長くなろうとしています。息子も日本で生まれました。日本は私の第二の故郷です。これからもチベットには学校建設で恩返ししていくつもりですが、日本の子供たちがより幸せを感じられるように、私もコンサートや講演を通して、微力ですが日本に恩返ししていきたいと思っています。

感謝の心を胸に。