「早過ぎた先見の明」(秋山 圭市 君)

2010年8月9日 (第2523回例会)

民主政権の発表した新成長戦略で観光立国を謳いあげている。2009年度に日本を訪れた外国人観光客は680万人で、これを10年後に2,500万人にしようという。香港のように小島でも2,000万人が訪れるというのだから日本も頑張らないといけない問題である。

だが今から50年も前にニューヨークでこれからの日本は観光立国だと私を説きふせた男がいた。それは丸善石油の御曹司であった和田太計司君という人物で、今日の卓話に思い出話を取りあげたい。

どうして彼と深く係ったのか、その出会いを思い返せば、戦後に大阪商船の再建に奔走した私の親父の話になる。先の戦争の敗戦によって日本の商船も全滅してしまった。資源のない海国日本にとって船の再建なくして国民は生きてゆけない大事なのだと、父が親交のあった住友銀行の岩崎専務のご意志を体して大阪商船の財務担当山下専務共々資金調達に走り廻っている姿を見ていた。そして昭和30年初頭の頃だが、OSKから招待状が来ているから代理で出席しろと言われて当日所定の港へ行くと、戦後初めて建造された1万㌧を越えた貨客船ブラジル丸の試運転初航海のお披露目の招待と解ったのであった。その美しい船体を見て日本の復興に深い感動を受けた。百名を超す招待客は取引先関係者で皆背広姿であったが、そこへF1レーサーのようなスマートな作業衣で颯爽と乗り込んで来たのが大阪JCの会合で一、二度会って憶えていた和田君であった。船が疾走し始めた頃、彼が一緒に来ないかと機関室に連れてくれ、物凄い轟音で全力をあげているディゼルのオイルの状況を点検していくのであった。甲板にあがって二人で色々な話をしていて、「君はどうしてこの船に乗っているのか」聞いてきたので、今日迄のOSK復興の経緯を侃々しかじかと説明すると、彼の態度は一変して信頼溢れる眼で話しかけてきた。船のとりもつご縁と言える。

その後彼は丸善石油NY支店の役員として、殆んど海外へと出向いてしまった。そして彼との再会は私が欧米証券市場視察団の一員としてヨーロッパからNYへ渡った時で、これも彼の強い要請でブラジルでのJCI世界大会に一緒に参加した。1ドル360円の時代、海外へ出る時は日銀へ申請して千ドルしか許可されなかった。和田君はNY滞在の面倒をすべてみてくれたので、本当にありがたい事であった。そして南米から今一度NYに帰ってきて、彼はどうしても君に話をしたい事があると打ち明けられた旅行会社の設立話には驚かされた。石油業界は世界の巨大資本が抑えている、日本の民族資本では太刀打ちできず莫大な設備投資についていけない、今は良いが将来のことを考えると丸善石油の後継者としてやる気はない、これからは観光立国の時代になる、旅行産業に力を入れたいと言う。私は考えて、戦後の後遺症が残っているし、道路・鉄道始めあらゆる施設がひどすぎる、旅行どころではないと色々な角度から反対したが、彼は、現状はそうだが将来をみればオリンピック誘致、高速鉄道建設計画、高速道路の整備もされて外人も日本人も旅行を愉しむ時代がきっとくる、自分は日本一の旅行会社を創りたいと自論を譲らず、私に自分の片腕となるような人材を探してくれと難題を持ち込まれたのである。当時英語ができて活動力のある人物はざらにいる訳はないが、ふと私の頭によぎったのは、仲良しの友人松添壮君という人物であった。彼はパンアメリカン航空という世界的な大会社に勤め、英語が堪能で大阪JCの国際活動は一手に引き受ける名物男であったが、まあ無理な話としてある日、和田君のこと、今迄の経過をるる説明してみた所、彼はなんと、日頃からそういう仕事をしたいと思っていた、和田さんと一緒にやりたいと言って、今度は私がびっくりする様であった。そして和田君と会う時には、同社の東京本部の玉村文夫さん共々参画したいということで忽ち会社創設に走り出す結末となったのである。私は社外取締役就任を要請されたので父に今迄の経過報告をして許可を得て、しばし二足の草鞋を履くこととなった。和田君が阪急ビルの近くに店舗を決め、先ずは商法に則り新会社設立のお手伝いをした。そして新社名は私の提案を叩き台に皆で考えてニューオリエントエキスプレス(通称NOE)と決定した。和田君の政治力は中々で、宮城前の丸の内に日本商工会議所と東商が入る立派なビルの1階を確保して東京支店とし、またあらゆる業界から旅行業に合う人材の確保、新入社員の採用など、どんどん拡大し、和田君はじめ全社あげての努力で業績も徐々にあがるのだが、なにせ経費が大きすぎるので本当に苦しい経営であった。私は三年程お手伝いをして本業の方が忙しくなり辞退させてもらった。

丸善石油は彼の予言通りなってしまい、また肝心の旅行会社も経営難に陥り、やはりちょっと早過ぎてタイミングが合わないという事で、あれだけ秀でた資質を持ったスケールの大きな人物だったのに、時勢に乗れず、特に彼が若くして亡くなったことは誠に残念である。そして皮肉なことに日本も大阪での万博開催で経済の大発展を遂げ、それこそジャパンアズナンバー1へとまっしぐら、旅行業界も大繁忙の状況となり、私も責任を感じ心配していた、玉村、松添両君は引く手数多でその後冨士海外旅行社の社長、専務に迎えられ業界で大いに活躍された。和田君が旅行業界に多くの人材を残された功績は確かで、私も後々海外旅行の折り、阪急交通社や野村ツーリスト等でNOE出身のツアーコンダクターの方々にお世話になった。先般北RCの古市先輩と話をしていて、日本のロータリアンでRI会長を務められた方は現時点では2名おられるが、その1人は東京RCの東ヶ崎氏だが、それには蔭で彼を支えた玉村文夫という優れた人物がいたからこそだと。彼は天皇陛下の同時通訳の委嘱を受けた程語学に秀でた人で、日本のロータリークラブの為に尽力された人物だと思っている。