「自然災害考」 -当山の近世資料を中心にして- (中川 泰伸 君)

2011年5月30日(第2558回例会)

近世の世相の推移は、容易に理解しがたく、日本人の多くが自己を見失い、新規な事のみに目をやり、民族にとって何が大切か、忘却している気がする。私の避事だろうか。大地、自然に対し、我々が如何に取り組んできたか、神仏のお諭しかなと思うことに出くわす。経済至上主義に走り、右肩上がりに追求してきたことに対する警告の気がする。今般、この様な題で卓話させて頂いたのは、古代・中世・近世・近代・現代と日本国は甚大な自然災害に会い続けている。平成23年3月11日、未曾有の事象に遭遇し、尊い人命が失われ、長年の蓄財してきた財産が散逸し、何より人にとって一番大切な精神が、心が彷徨い、喪失され様としている事に思いを馳せながら、資料・伝説を勘案し考述したいと思う。

 

壬辰逮于人定大地震擧國男女叫唱(略)諸國郡官舎及皆姓倉屋寺塔神社破壊之類不可勝藪於是人民及六畜多死傷之時伊豫温泉没而不出土佐國田苑五十余萬頃没爲(略)未東方有人曰伊豆嶋西北二面自然增 (略)庚戌土佐國司言大潮高騰海水飄蕩由是運調船多放失焉(略)庚午日没星隕是年詔伊賀伊勢美濃尾張四國自今以後調年免役々年免調と日本書紀29巻に天武天皇13年甲申(684)の白鳳南海地震の様子が記されている。又、日本三代實録巻八の清和天皇貞観6年(864)5月25日、廿五日庚戌霖雨(略)駿河國富士正三位浅間大神大山火其勢甚熾燒山地震三度歴十餘日(略)沙石如雨煙雲鬱蒸人不得近大山西北有本栖水海所燒岩石流埋海中遠州許里廣。云々。同巻十六清和天皇貞観11年5月26日(869)条に、貞観陸奥地震の記述。 廿六日癸末陸奥大震動流光如昼隠映頃之人民叫呼伏不能起或屋仆厭死或地裂殪馬牛駭奔惑相昇踏城郭倉庫門櫓墻壁頽塔?覆不知其數海中咆哮聲似雷霆驚涛漏潮泝洄張長忽至城下玄海數十百里浩々不弁涯埃原野道路惣爲?溟乘船不遑登山難及溺死者千許資苗稼殆無子遺焉

 

3月11日の東日本大震災のような大震災が興っている。以後、大地震が天正、文禄、寛政、文化、弘化年間に、大噴火が宝永富士山、天明浅間山、寛政雲仙岳とあり、嘉永伊賀伊勢大和被災(1854年6月15日)、安政東海地震(同年11月4日)、安政南海地震(翌5日)、安政東海地震余震(9月28日)、安政江戸大地震の記録あり。棟札の第七十九世貫主廣蓮社廿一主延譽寛應上人は、後に京・黒谷大本山法主、総本山知恩院門跡に普薫された方です。当山は江戸時代、二百数十ヵ寺の末寺を有し、本山で勅願寺であり、日本仏教初伝来の聖地で、古代よりなにわの舟寺として栄え、天皇家の伝法官寺で、三十三観音、四国八十八巡礼・総霊場が存在する。瀬戸内の海運を取り締まり、外交館で、伝法は本船場で、伝法商人は堺・長崎や博多商人と交流を持ち、日本、中国、朝鮮、南海諸国、北方(蝦夷地)と交流する一大経済・商業の中心で、伏見-伝法-尼崎を結ぶ水運の要の寺で、四国・琴平神宮と共に海運・航海安全と商売繁盛の霊場であった。秘仏元摩耶十一面観音(伝法観音)の修復資料、川施餓鬼供養札、結縁交名板等を勘案する事とした。

 

安政乙夘年六月廿八日記札添棟札以送後世其謂者去嘉永七甲寅歳六月十四日夜八半刻大地震續而霜月四日辰之半刻大震動ニ而後堂西廊下

崩落翌五日諸檀中打寄片付本堂庫裡大門等丸太材木ヲ以杖ヲ加不終申中刻大地震及洪浪同夜更大振動ニ而坊舎悉ク大破及村中正蓮安楽
南無阿彌陀佛摂州西成郡傳法山西念寺本堂修覆圓成廿一世廣蓮社延譽寛應代敬誌?両本堂打倒酒造村南北三拾ヶ所崩倒逃去人々願無恙諸國之證勤大変不大方事偏厭欣之心増進是有爲之受苦一向専修之祖意不戀哉

爰耳當院修覆喜捨之諸柤越近年之劣世勧進志不遂漸本堂修膳修理諸佛遷座之浄財喜捨柤名札裏誌置後代鑑篶
 裏に大工  棟梁柤家大野村 新介 世話人 他
嘉永7年6月14日大地震が有り、11月4日大震動にて後堂西回廊崩落、翌5日諸柤中が打ち寄せて片付けをし、本堂庫裡大門に丸太材木で杖を支えたが、再び大地震が起き、洪浪・津波が発生。夜に大震動があり、坊舎悉く大破し、北伝法の安楽寺・正蓮寺両本堂が倒壊し、南北30ヶ所崩倒、と当山の様子が記されている。伝法には33軒の造り酒屋と廻船問屋があり、灘や伏見や伊丹の酒造業本家が多かった。右近権左衛門と肩を並べた豪商で千石船100隻以上有し、辰馬酒造に大金を融通する大家で台店(本家)5000石、中西万歳印、大西松竹梅、岸民日本桜印、鴻吉山海印、西店・東店の名が『江戸積荷樽覚』『樽廻船名前帳』『勘定目録帳』『小西家文書』等に見える。宝酒造(伏見と灘)、岸田酒造、イカリソース、カバヤ、田辺・塩野義・武田各薬業当主等の製造業や三和銀行、大阪綿繰会社、小西酒造(伊丹小西酒造と同列)、万歳酒造、合同酒精、井上味醂醸造場、住友吉左衛門の住友鋳鋼場、その他役場、警察署、消防署、郵便局、小学校(当山の元禄年間の寺子屋)等すべて西念寺寺領に在った。経済だけでなく、行政・文化・教育の大阪の中心でもあった。地震の後、逃げ去った人々が無事である事を願い、厭離穢土、欣求浄土の心持が益々盛んになり、浄土教の根本思想である「有為の受苦に会い、一向専修の思い、宗祖法然上人の御心、御教が大変有難く、且つ、待ち遠しい」と述べ、「今回の修復喜捨之諸檀家が、勧進の状態が大変厳しいのに、その志を預いて完成できましたので、(修覆した)諸仏遷座の浄財寄附者の名前を裏に記」した。裏面の人々は、西大阪一帯の豪農や豪商達や庄屋級の人々で、新田開発をした人もいます。この地震の様子は、『大地震両川口津浪記石碑』『大地震大津浪松代噺迺種』に「摂州伝法酒造味醂蔵のこらず大波にて崩候事奇代の珍事なり」、『井西記-井上彌兵衛』に「二度目、三度目の津波は波止場へ少し乗る」と記録にある。他の記録省略。
歴史は様々な教訓と知恵を残し、与えてくれる。個々の事象を正確に判断し、実践に役立てる事が肝要である。我々は、絶えず自己内省をなし、かりそめにも慢心があってはならず、感謝の念のない人々には、ご奉仕はふさわしとは申せず、その様な人々には決して光は当たらないし、神仏や天地、人々からの御加護・御恩・ご縁は預けないと考える。尊きご縁に感謝し、尚、愚衲は「恥」は日本文化・日本民族の、世界で唯一持つ思想と信じています。