「震災から1年」 (吉川 悦正 君)

2012年4月2日(第2596回例会)

 本日は東日本大震災から一年というテーマで、卓話をさせて頂きます。先月3月17日から20日にかけて宮城県南三陸町へボランティアに行ってまいりました。
きっかけは、2月初旬にある方の講演を聞いたことでした。話を聞いてどうしても現場に行ってみたいという気持ちになり、そして見るだけではなく何か役に立てることがないかとボランティアに行くことにしました。場所について募集状況をホームページなどで、ボランティアが不足している所、また一人で行きましたので、個人で参加できる所で探したところ、事前登録の必要なく活動できる宮城県南三陸町に決めました。
南三陸町は宮城県北東部、本吉郡の南端に位置する東は太平洋、三方を標高300~500mの山に囲まれた自然豊かな町で、リアス式海岸特有の見事な景観をしています。この地域はリアス式海岸の地形的な特性から津波の影響を受けやすく、明治29年の明治三陸大津波、昭和8年の昭和三陸大津波、昭和35年のチリ地震津波によって大きな被害を受けました。
南三陸町の被災前の人口は約18,000人。今回の津波で約9,000人が被災。死者542名、行方不明者664名にのぼり、町の建物の約7割が流されました。津波の高さは15.6mにまで達しました。
ボランティア内容は、がれき撤去、泥かき、水中の清掃、漁業支援など。まず登録用紙に、そこで自分がどのような事ができるか、資格を持っているかを記入します。その内容によって今日の作業が振り分けられます。一日目は、個人・団体あわせて380名のボランティアが参加しました。海岸から2㎞ほど内陸に入った廻舘地区でがれきの撤去を行いました。ガラス・金属・コンクリートなど分別しながら撤去を行うのですが、食器の破片、おもちゃ、スプーン、フォークなど生活する上で誰もが使うであろう物が多く、言葉を失いかけました。二日目は50名程に減りました。作業は、被災して働き手が不足しているため復興が遅れている漁業支援・わかめの出荷作業を漁師さんに教えてもらいながら行いました。そこでいろいろな話を聞くことができました。警報が出てもいつもは50~60㎝なので安心していて、部屋の片づけをしていて避難が遅れたこと、電気・電話が止まり情報が入ってこず、車のラジオ・カーナビのテレビが唯一の情報源であったこと、などです。
ボランティアについては様々な意見や問題があります。何の経験もない人間が行ってかえって足手まといになっていること。被災された方の感情を無視して自己満足になっていること。ボランティアの名を借りた自分探しをしていること。マナーの悪さ。
私は、今回の事を人前で話すつもりはありませんでした。ボランティアと言いながら物見遊山になっているのではないかと思えたからです。しかし、帰る間際、ボランティアリーダーの青年が話されていました。「ピーク時のゴールデンウィークでは450名を記録したボランティアですが、盆明け以降は減少傾向にありました。震災から一周年で少しは回復しましたが、平日は20名程、ひどい時は数名の受け入れとなっているのが現状です。復興ムードの温かなニュースが流れています。復興に向けて自分の足で歩き出した地域もありますが、まだそこへ行くまでには外部の支援が必要な地域が多く残っており、また支援の円滑さ、復興の速さは全く違っています。まだまだ外部からのボランティアが確実に必要です。是非来てほしい。無理やりにでも引っ張ってきてほしい。」