「一日一生」(比叡山飯室谷不動長寿院 住職・比叡山大阿闍梨 酒井 雄哉 氏)

2011年9月26日(第2572回例会)

(担当会員:佐伯  一 君)

自分がどうだったのか、社会的に皆さんにご迷惑をかけたのではないか、それだったら明日出ていく時にはそういうことがないように、皆さん方のために尽くすよう頑張りましょう、いい方に生きましょうというふうに考えていくことです。死の世界というと、みんなが「南無阿弥陀仏」と淋しく思われるかもしれませんが、明日生まれるための準備運動に入っていると思って、いい世界に生きていれば、善い行いをすれば、善の世界があるというふうな物の考え方に立つことが大切です。死というものに対してみんな淋しく思うけれど、僕なんかの考え方は、死ぬということは明日また今以上の自分になるために努力するとか、失敗したことをその間に反省するとか、懺悔するとか、解決して次の時に準備することが出来るのではないかなというふうに考えています。
そういう意味からいうと、皆さんは色々な仕事をされており、今日のことは今日でもって、いろんなことがありますが解決できることは解決して、後々ずっと引っ張っていかないように努力すべきだと思います。結局どこかに出てくるのは私欲、私の利、それを先に考えると、どんなに立派なことを言っても通用しません。
ここに素晴らしいことが書いてあります。真実かどうか、みんなに公平か、好意と友情を深めるか、みんなのためになるかどうか、この言葉を集約すると、今から3000~4000年前に出てきます。それが日本語化されて日本人の中に生きています。真実かどうか、本当の姿、色眼鏡をかけないでストレートに見ることができるかということを言っています。みんなに公平かというのは差別をしてはいけない、貧乏人と金持ち、金持ちは金持ちの苦労があり、貧乏人は苦労するけれど、こんなさばさばしたことはなく、いいように物を考えて、ひねくれることはありません。かえってお金持を持っている人は気の毒だ、いくところまでいったら後は減らないような方法で後継者に引き継がなければなりません。好意と友情を深めるというのは、やはり慈しみと思いやりです。思いやりがあるかないか。昔、中国に行ったことがあります。孔子文化大学で講演を頼まれて思いやりという言葉を使いました。講演が終わって質問の時に、「仏教と儒学はどう違いますか。似ているところはありませんか」と聞かれ、儒教が分かりませんので私にはさっぱり分かりませんでした。ただ、一つ言えることは、思いやりです。今の天皇陛下が皇太子の時代に欧州によく行かれて、「恕」という言葉を欧州の人に教えられたそうです。「恕」とは思いやりです。それを思い出して、「儒学には恕という言葉がありますが、それは思いやりです。真心をもって思いやるのが忠恕という言葉です。仏教には慈悲という言葉があります。思いやり、慈しむ心は共通します。ただ、違うところは、仏教は仏様の世界であって、儒教は現実に生きている人の思想です」とお答えさせて頂きました。「やはり思いやりですね。私は3年間アメリカに留学しましたが、その間に思いやりはありませんでした」と日本語で言って下さったことが思い出されます。みんなのためになるとかどうか、人間というのは公の人間と私的な人間があります。会合に出ている時は社会的であり公人です。家に帰ればプライバシー、それを混同してしまうとピントがずれたことをやってしまうことになります。分かっていても実行しなければ、そこに間違いが生じてしまいます。
もっとお話したいのですが、これで終わらせて頂きます。ありがとうございました。