「灘の酒と白鹿」 (辰馬本家酒造㈱ 常務取締役 三木  繁 氏)

2013年1月28日(第2630回例会)

(担当会員:栗山 勝之 君)

 

私は入社して約35年、13年間は日本酒の国内営業をさせて頂いて、甲子園球場北側のノボテル甲子園は辰馬本家酒造㈱100%の子会社ですので、1992年開業の1年前から開業準備室に出向し、14年間はホテルマンとして勤務、日本酒の世界では味わえない体験もさせて頂きました。2005年から酒造会社に復帰し現職に至っています。
灘五郷とは小さな村の単位、企業の集合体のようなものです。今津郷で一番有名なメーカーは大関さん、西宮郷には白鹿、日本盛さん、白鷹さんが代表的な銘柄として存在します。魚崎郷には桜正宗さん、御影郷には白鶴さん、菊正宗さん、剣菱さん、福寿さん、西郷に沢の鶴さん、富久娘さんがあります。元々は摂泉十二郷というのが江戸時代初めから中期以降までありました。その中で古いのは呉春で有名な池田、白雪で有名な伊丹です。私ども白鹿は昨年で創業350年以来の歴史を刻んでいますが、池田や伊丹はそれより100年ぐらい古い歴史を刻んでいらっしゃいます。関西の酒のルーツというと実は伊丹、池田あたりです。東灘の剣菱さんは500年ぐらい続いており、元々は伊丹のお酒です。剣菱さんは関西でも有名ですが、昔から売れているのは東京市場で、将軍の御膳酒に指定され、江戸に広まったようです。
日本酒の造り方は世界に冠たる酒の造り方と言われています。お酒は糖分を酵母の力でアルコールに変えるのが基本です。ワインは果汁の糖分を酵母がアルコールに変えたものです。日本酒は米の澱粉を糖分に変えるのと、糖分をアルコールに変えることを、一つのタンクの中で同時に進行させますので、非常にコントロールの難しい造り方を日本人はあみだしたということです。日本酒の材料は蒸した米、米麹で、米麹のカビが糖化酵素を生みだして米の澱粉を糖分に変えていきます。それを宮水の中で同時に発酵させてできるのが灘のお酒です。
灘を語る上でどうしても欠かせないのが宮水です。宮水は狭いエリアでしか出ません。阪神西宮駅南東300m四方のエリアからだけ湧き出し、それも非常に浅い井戸で3~5mの伏流水です。3つの地下水脈の合流点で湧き出す水で、法安寺伏流・札場筋伏流・戎伏流が合わさったものです。これを発見したのは魚崎の桜正宗さんで、1840年のことです。西宮と魚崎で酒を造っていましたが、工程をすべて同じにしても味が異なり、西宮で造る酒の良質な味の原因は水にあるとし、これをもって「宮水の発見」とされています。宮水はミネラル成分が豊富で、酒造りに適しない鉄分やアンモニアが少なく、ミネラル成分は酵母の活動を促進します。宮水を使った灘のお酒は寒造りで春にできたお酒が夏を越えると非常に良くなり「秋晴れ」のするお酒と呼ばれ、全国に広まっていきました。
灘五郷の清酒のシェアは30%超あり、それに続くのが京都の伏見の20%、灘と伏見で半分を占めています。灘酒発展の理由として輸送に耐える良質な酒質、六甲おろしによる寒造りに適した気候、丹波の杜氏という非常に優秀な技術者が近くにいたこと、播州方面からの酒造好適米、産地が海に近くて海運が利用できたこと、こういうことが一般的に言われています。
その裏を深読みをしていくと、私が考えるのは、やはり関西の企業家精神が役立っていると思います。先取的近代経営の気質が灘を日本一にしていったのではないかと思います。江戸時代は機械文明にほど遠い中で、灘が伸びていったのは、六甲山からの夙川、住吉川などの急流による水車精米をいち早く取り入れたことにあります。それまでの精米は足踏み式で効率が悪く、水の力を利用することで精米の量が圧倒的に増えました。また、一番売れるところでいかに売るかというマーケティング手法。地場産業ですので地元周辺で売ればいいわけですが、当時の大市場である江戸に如何に商品を供給するかということを考えた結果、当時の大量輸送手段である船を利用する物流網の確立、一番大きな樽廻船で3,000もの樽を積んだという大変な大量輸送手段です。最短で6日間で江戸に運んだと言われています。あらゆる流行り、発明が関西から生まれたと言われますが、この時からそういうことが行なわれていました。
白鹿は1662年創業ですので2012年に350年を無事に迎えています。西宮ヨットハーバーから北を見ると当社、本社と最新鋭の瓶詰工場が見えます。甲山から六甲山が望め、そこからの六甲おろしも想像できる、はっきり分かりやすい地形にあって、海に近くて大量輸送手段である船が使いやすいロケーションに位置しています。今の白鹿は酒造だけではなく他の事もやっています。教育事業として皆様も進学校として良くご存知の甲陽学院中学校・高校。幼稚園事業としては夙川駅近くに松秀幼稚園を経営しています。また、社会福祉法人を設立し、待機児童の解消を目指して「かえで保育園」を2年前にオープンさせました。文化事業としては博物館、先ほどご紹介しましたがホテル事業も行っています。
酒造家は堅実で資産があっていいですねと言われますが、本当に堅実だったのかなと、今回の卓話を機に色々と調べました。割と堅実であまり無茶をしていないことは間違いありませんが、長い歴史のなかで、この業界にあって消えていった蔵元さんが多い中で、何とか今も生き残ってやってきました。創業から江戸後期頃まではあまり大きくなっていません。辰馬本家酒造㈱が大きくなったのは江戸末期から明治後期で飛躍的に伸びています。酒造業を中心に目ざとい商売、気になる商売に手を出しています。宮水の発見で水を売ったり、金融業も行なっていました。また、台湾に現地法人を立ち上げ、米、薪・炭類の販売も行っています、九州の炭鉱を買ったら大赤字で撤退したという失敗もあります。また、樽廻船から発展した船会社が躍進し、この頃が一番の躍動時です。最も発展したのが明治~大正で、教育事業を始めたのは大正です。その後戦中戦後の混乱期があって財閥解体があり、その時の財産税納税順位が住友家の次だったそうです。その後は皆様が大体ご存知の通りで、酒造会社として細々と地道にやっています。今は流通の大革命が起きており、非常に厳しい状況ですが、何とか350年続けてこられたことを有難く思うとともに、この灯を消さない様に頑張って参りたいと思っています。本日はありがとうございました。