「先達に学び、出会いを生かそう」 (人脈H2O(幸水)コンサルタント 代表 倉橋 悦雄 氏)

2011年12月5日(第2581回例会)

(担当会員:高垣健太郎 君)

私は宮崎県串間市の出身で、大阪に参りまして61年の月日がたちました。今日は「先達に学び 出会いを生かそう」というタイトルでお話をさせて頂きます。先達の一人、上杉鷹山公、米国大統領、J.F.ケネディーは在任中に「最も尊敬する日本人政治家は上杉鷹山だ」と言いました。五代友厚公は鹿児島出身で大阪商工会の初代会頭、近代大阪産業の生みの親でもあります。中馬馨氏は第13代大阪市長であり大阪万国博遂行の父と言われています。そして高垣歯科診療所所長であり医学博士、交通評論家、1985~1986年度の大阪西RCの会長を務められた方が高垣雄二郎先生です。
上杉鷹山公は1751年に日向高鍋藩、今の宮崎県高鍋町で秋月種美の二男として誕生、「なせばなる なさねばならぬ何事も ならぬは人の なさぬなりけり」は、上杉鷹山公のお話を進めるのに避けて通れない言葉だと思います。1760年、上杉重定の養嗣子となり、1767年、17歳で藩主に、上杉謙信から数えて10代目の当主です。倹約を旨とし、産業や教育の振興に力を注がれました。平成10年3月、第70回選抜高校野球大会に高鍋高校が32年ぶりに出場した時、近畿宮崎県人会幹事長をしていた私は、総勢200人が集まられたOB会の激励会で、毎日放送元社長の坂田勝郎先輩、住友グループ総理事でありました鈴木馬左也先輩、上杉鷹山公を紹介させて頂きました。3人とも高鍋に生を受け、異郷の地で名をなした方々です。そして上杉鷹山公の本を50冊渡しました。翌年に行なわれた同窓会で、校長先生が、米沢藩から高鍋町に旗が送られてきたことを報告され、高鍋高校と鷹山公ゆかりの米沢興譲館高校との交流が始まりました。
五代友厚公は1835年に誕生し、明治18年に51歳の若さでこの世を去りました。「自ら進む者こそ大きく運命を拓くことができる」と説き、「屈しざる者必ず勝つ」が座右の銘であったようです。「降り積もる深雪耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき 人もかくあれ」は昭和天皇が終戦後初めて詠われた御製です。大阪証券の故巽悟朗会長が新年互礼会でこの歌を披露され、「小泉純一郎物語」でその歌を知っていましたので、「実は…」ということで、巽会長と兄弟の契りを結ぶことになりました。巽会長は五代友厚公の銅像を建てられ、東の渋沢栄一、西の五代友厚と言われています。中馬馨氏は昭和34年から4回の大阪市長選挙出馬の告示の時、花束を持って友厚公のお墓にぬかずき、「あなたのお考えを今から実現してまいります」と深く頭をさげ、中之島にある關一大阪市長の銅像に花束を捧げるというのが一つのパターンでありました。
中馬馨氏は明治37年11月20日、宮崎県西都市に誕生、幼少の頃より神童と言われ、宮崎県立宮崎中学校から早稲田大学に進学し、大阪市役所で關一市長の秘書として奉職され、私とのご縁は関西大学の学生時代から20年間、公私にわたって仕えさせて頂きました。最初の頃は時には風呂に入って背中を流し、死去される2日前、0型である私は150ccを輸血し、「君の血は真心がこもっているから気持ちが良い」とおっしゃられ、40年たった今日でも昨日のことのように思い出されます。昭和34年、38年、42年、46年と四期にわたって大阪市長選挙を戦い、34年は落選でした。父である重顕氏からの電報、「負けて悔いなし、また新たな希望に生きよ」、これこそが、それからの連続当選の原動力になったことは疑いの余地がありません。中馬市長が言われていたのは「得意淡然失意泰然」ということです。そして市民の税金に値する効率の高い市民サービス、緑化100年宣言、三戦の時、46年には水の都、緑の並木、文化の町を訴え、町角に優れた彫刻を配置し、市民の文化的鑑識眼を向上させようと訴えられました。当時のスローガンは「大きな計画、土性骨のある市政、青年に夢を、老人に憩いを、水の都、緑の並木、文化の町」というものでした。昭和45年、東洋で初めての大阪万国博覧会、6,700万人の世界の人々が大阪に集まり、そのエネルギーは中馬市長の卓越したアイデアによるものであると信じています。昭和46年4月12日の市長選において101万3,503票という圧倒的な支持を得て三期目の当選をされました。万博期間中に私の叔父である日南市長、私の故郷である串間市長と中馬市長が集まられたのは今も思い出の一つです。
私の甥の松下新平は宮崎県選出の自民党参議院です。義弟である野辺修光は地元の市長として、NHK日本農業賞、お茶生産の部で宮崎第一号となりました。ケーキ「ツマガリ」の津曲孝社長、「財界」の社長である 村田博文氏、そして昨年、プロ野球ナンバーワンとなった西村監督は私の母校、宮崎県立福島高校の後輩です。全員串間市出身です。また、日本でただ一つ、野生馬の都井岬は私の故郷、串間市にあります。大阪西RC会長をされました高垣雄二郎先生は神戸市のお生まれで、梅田で歯科医院を開業され、出身校の大阪歯科医大の講師をされていました。交通評論家でもある高垣先生から「エコノミッククーポンをやろう」というお話があり、中馬市長にご相談し、宮崎日南海岸えびの高原エコノミッククーポンが実現しました。昭和42年2月11日より20日間、1日40人、計800人が大阪駅から宮崎へと出発し、宮崎交通の岩切章太郎社長が自らマイクを持って参加されました。夜は黒木知事、地元の有志の方々が参加され、大阪と宮崎の交流が実に和やかに行われ、これは高垣先生のお考えに従い、我々の実行により実現したことです。この功績に対し昭和44年、高垣先生は感謝状を受けられました。平成19年8月18日、故高垣雄二郎先生のお別れの会が催され、生前に交流のあった500名近くの方々が徳を偲んで参加されました。「一日の計は明日にあり、一年の計は元旦にあり、一生の計は出会いにある」と私は思っています。きれいに咲いた花よりも、花を咲かせる土になれ、我々は先達に学び、出会いを有効に生かすことによって、人生を楽しく過ごしたいものです。最後に東日本大震災による東北が一日も早く復興することを皆様と共に祈念し本日の私の卓話を終わらせて頂きます。