「関西商法に生きる家訓・社訓」 (経済史研究科 大塚  融 氏)

2012年3月5日(第2592回例会)
担当会員:山上 和則 君

 

私が関西商法や関西企業の経営理念、わけても家訓や社訓に注目する契機となったのは、昭和48年秋の世界的な石油ショックに伴って、わが国だけが特異なモノ不足パニックがトイレットペーパーに端を発していることによる。当時、東京で農政担当記者だったが、大阪の報道で、味噌や塩など次々食料品も買占められ、市民がパニックになっていると伝えられても、東京では買い占めの動きは全くなかった。ただ、その前に証券界担当記者だったころから、中山製鋼所や三光汽船などの株や商品相場への投機的な動きがあるたびに、「また西筋の投機か」といった、関西に対して、関東とは違った特異な経済風土があることを感じていた。関西のモノ不足パニック騒動がやがて東京にまで広がり、日本全国が猛烈なインフレとなるまでには、およそ2週間かかっている。
翌年昭和49年に大阪に転勤すると、真っ先にパニック発端の千里ニュータウンの取材にかかり、関西の経済取引風土・関西人の気質などを考察していく中で、意思決定に使われる家訓・社訓に注目した。パニックが大衆の異常な心理を引き起こすのであれば、経済問題を扱うジャーナリストとして、まず、経営者の持つ理念を意思決定の過程からたどりたかったからだ。
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関西を代表する企業グループ「住友」は、社訓を特別に大事にしている。社訓の一節に、「わが住友の営業は信用を重んじ確実を旨とし」というのがある。大正時代、第一次世界大戦のバブル経済のなかで、三井・三菱グループに肩を並べる躍進をしていく神戸の鈴木商店をみて、住友の重役たちは、総理事の外遊中、住友にも商社をつくるべく稟議書を作成した。しかし、帰国した総理事は、「住友は銅山業を主力に江戸時代から堅実な経営をしてきたのに、相場に左右されるような慣れない商社活動をすべきではない」と、稟議書を御破算にし、以後住友では、商社をつくることが敗戦まで稟議されることがなかった。敗戦直後、新たな働き口として商社が起業された時、総理事から「社訓を守れ」と釘を刺され、長い間住友商事は、「石橋を叩いて渡る」商社として大手商社の下位に甘んじた時代が続いた。
住友銀行副頭取もした村井は、東洋工業・アサヒビール・JR西日本などの再建のたびに必ず社訓の見直し・新たな制定をするという住友の風土が育てた経営者だった。村井は、国鉄が民営化されたJR西日本のトップになった時、ただちに社訓をつくり、幹部に「お客様第一」の営業精神を盛り込み、制定1周年事業として管理職員を集めたフォーラムを開き、客へのサービスの理念を社員に徹底させた。ところが、福知山線の脱線転覆事故の後、幹部の間で社訓の第一には、人命を預かる企業として、「安全第一」を強く掲げるべきだという声があがり、社訓の改定委員会を設けるほどであった。現在の社訓は、「安全第一」を強調するものになっている。
住友グループで本社が唯一関西にある住友電工の松本正義社長は、東日本大震災の3年前、熊取町に持っていた原子燃料工業の株式をウェスティングハウスに売却した。その理由として、松本が熊取町の会社を視察した時、社員の原子力についての知識が不十分であることに不安を感じたことを挙げているが、松本は「確実を旨」とする住友の精神が骨肉化していたのだろう。
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松下グループは松下幸之助が存命時代、毎日朝礼で「ひとつ 産業報国の精神」に始まる松下七精神を全職場で唱和、また松下が産業人の使命を悟った日を「命知」として、毎年5月5日は祝日にもかかわらず、全社員は出社して講話を聴いた。同じく家電業界の雄・シャープの創業者・早川徳次は、松下と誕生年も学歴も職人奉公もほとんど同じだが、私の印象では、松下の経営は「閉ざされた内向き」の社員の育て方に特徴を感じる。
これに対して、早川には、「開かれた外向き」の人材育成を感じている。シャープの社名が早川電機の時代、「信用の蓄積」に始まる「資本・奉仕・人材・取引先」という五つの「蓄積」の社訓があった。私が82歳の早川の自宅に、社訓の活用について伺った時、「私は職人の育ちだ。いい職人は道具の整理がきちんとできる。今でも、暗闇で引き出しの爪切りを取りだせる」と言い、「ロボットは、最も優れた職人の合理的な手の動きを模倣しているにすぎない。職人は大切にしている」と語った。社是の「人材の蓄積」の根拠である。
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東京と違う大阪の経済風土を象徴するものに、「五十日(ゴトビ)」の習慣があるが、これは「始末・才覚・算用」という江戸時代以来の商家の家訓によるものだろう。商いは、売買の契約ができても「始まりに」にすぎず、お金を回収して「末」つまり取引の終わりであることが重要で、そのために取引の相手に直接会って、継続した取り引きしてよいか見極めることが、社員教育で身についているのだろう。船場に現金取引を重んじるインド商人が多いのも、この「五十日」の習慣のある大阪の経済風土と関係していると思える。
東日本大震災以降、西日本への首都機能の移転が課題になっている。震災国・日本を考えれば、遅すぎる取り組みである。ただ、現在の東京の首都機能は、東日本の市民の感性・心理・習慣といった風土にみあったものであり、決して日本全体の風土にふさわしいものではない。特に、経済政策のような国民の暮らしにかかわる政策は、社訓の誕生や活用にみるような風土的条件をしっかりと考察して、西日本の首都機能を強化すべきである。